剣と禅と心と。 (その2;剣は心なり)

ところで。勝海舟は幕府直参旗本勝小吉(30俵2人扶持)の長男として生まれ。

つまり貧乏侍という環境で育ち、ペリーの来航時に幕府下は町民から幕閣重臣まですべてに対し対応策を献策させておりに、その才覚を認められ幕府要職にまで就いた。

 

30俵2人扶持;年収が2人で60㎏の米俵を30個分。これで生活のすべてをまかなう。

今で言う給料がお金で無く、お米で支払われていた。

武士が金銭を扱うとは恥とされる建前社会が徳川幕府が無くなるまであっ

た。

                  

 

この環境の中父親勝小吉の豪快な性格、市井の親分的存在の影響を強く受け育っており、晩年の貴族院議員としての立場にあっても周囲の一般市民が種々相談に来ては、講話をしていたという。

 

若年修行時代には、剣と禅と蘭学に明け暮れ、金のない海舟は蘭学書を高家の旗本の知人に借り受け、写し書きして勉強していたと言う。また書き写しは2冊分を作り、1冊は売って生計の足しにしていたらしい。

 

そして剣術は直新陰流(じきしんかげりゅう)を修練した。その時に、夜自宅の庭に出て木刀を振っては座禅を組み瞑想する。その繰り返しを毎晩行ったと。

 

日米修好通商条約批准遣米使節随行員(咸臨丸船長)。

神戸海軍操練所(海軍塾創設。初代塾長が坂本龍馬)。

江戸無血開城(軍事総裁。山岡鉄舟を特使として西郷隆盛と基本条約を整え、会談に臨む)。幕臣唯一の明治政府貴族院議員(外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿)。

 

明治の政治家としての立場により、徳川宗家、徳川慶喜の朝敵からの赦免。に生涯を尽くした。    (徳川慶喜15代将軍は水戸家お預かりの上蟄居謹慎の身分にあった)

 

また、西南戦争の後、同じく朝敵となっていた、西郷隆盛の赦免にも尽力し、明治政府により許されて後、上野・鹿児島に西郷隆盛の銅像建立も許可された。

 

困窮する生活にありながらも、市井の親分的存在であった父・勝小吉の背中を見て育った勝海舟。その生き様は、己がためで無く、人のために尽くし、人が平和に安心して暮らしていける世を考えていた。

それが、幕末期の幕府の重臣でありながら、開国論そして富国強兵を献策し、反幕派との交流も深く、世界を視野に国内体制を見る事に尽力していた。

 

                 晩年の勝海舟

その精神力胆力を剣と禅にもとめ、修行を重ねた。

そして、

「剣は心なり。心正しからざれば、剣また正しからず。」

「明鏡止水の如し。」

を信条とした。

 

多くの瞑想する時間を持ち、その中に、都度の信条を作り上げ、自由な広い発想を生み反幕派とも日の本「日本国」の将来のために奔走した幕府側の1人であった。

 

幕府の開国派の代表には、福井藩の松平春嶽や佐久間象山、小栗上野介などもいた。

 

そんな海舟の言葉には、「氷川清話」より。

 

自分の価値は自分で決めることさ。

つらくて貧乏でも

自分で自分を殺すことだけは

しちゃいけねぇよ。

 

その人がどれだけの人かは、

人生に日が当たっていない時に

どのように過ごしているかで図れる。

日が当たっている時は、

何をやってもうまくいく。

 

行いは己のもの。

批判は他人のもの。

知ったことでは無い。

 

事を成し遂げる者は

遇直で無ければならぬ

才走ってはうまくいかない。

 

世の中に

無神経ほど強いものはない。

 

何でも大胆にかからねばならぬ。

難しかろうが、

易しかろうが、

そんなことは考えずに、

いわゆる無我の境に入って

断行するに限る。

 

生死を度外視する決心が固まれば、

目前の勢いをとらえることができる。

難局に必要なことはこの決心だけだ。

 

と言った語録を残している。

勝海舟(号名)。

本名;勝麟太郎(幼名)義邦。 幕臣勝阿波守。

 

では、

剣は心なり心正しからざれば剣また正しからず。

の、心正しいとは何か。

それは人により異なるだろう。

 

私にとっての心正しとは、

人にされて嫌だったことは、人に対し絶対にするな。

と言う信条である。